texturehometext archivephoto worksaboutspecialarchive 2ueno osamu

[contemporary7:メディア論的補遺(複製技術時代の人間-3)/photographers' gallery 2003.8.4:http://www.pg-web.net/]


A.

 何を写真と呼ぶかは別にしても、今日、確かに言えることは、実際に見ることができるよりも、はるかに多くの写真が存在するということだろう。例えば、たった一日の間に撮られている写真を考えてみても、ひとりの人間が一生をかけても見ることのできないほどの量が生み出されているに違いない。あるいは、次々と生み出され続けているいわゆる写真作品(と自称するもの)に限っても、そのすべてを見渡せる者は誰もいないだろう。  にもかかわらず、写真は、写真とは…、という言述が成り立っているのは、すべてを見渡すような何らかの視点が自然に受け入れられているからではないだろうか。逆に言えば、写真と呼ばれるものを支えているのは、この潜在性、見渡すことの不可能性にほかなるまい。この不可能性は、一方で見ることを直接性から引き離し、潜在性のなかに埋め込むと同時に、他方で可能的な主体、すべてを見渡すようなメタ主体を自明のものにするだろう。

B.

 したがって、今日見ることを支えているのは、見るという経験ではなく、見ることができるという可能性である。複製技術の本質は、こうして経験の直接性を可能的な経験へと不可逆的に転換することにある。そこにおいては、オリジナルに触れる経験やオリジナルを所有することが価値なのではない。それとは正反対に、見ることができるという可能性を所有することこそが、価値を構成するのである。換言すれば、複製技術時代において見ることの価値が生み出だされるためには、その可能性さえ所有することが保障されていれば、実際に見る必要すらまったくない。これは何も突飛な事態ではない。アルバム、カタログ、図鑑…等々、むしろ日常的にありふれていることだと言えよう。  のみならず、複製技術時代における真正のオリジナルは、複製が不可能であるという点において、まったく無価値なものですらある。なぜなら、ここでの可能性が生み出される要件は複製可能であることだからだ。そして、オリジナルの超越性がこうして無化されるからこそ、メタ主体という見ることを吊り支える超越論的主体が不可避的に、不断に要請されるのである。

C.

 こうしたメタ主体は、その超越論的性格から、形態論(メディアはメッセージである)や虚構の一元論(シミュラクル)を生産することになるだろう。それらはいっけん説得的なものにみえるが、実際にはその視点に立てる者は誰もいないがゆえに、暗黙のうちに真正性や現実性を渇望させるものとして機能することになるだろう。これは例えば、マルチカルチュアリズムにおいて、その視点を可能にする超越性そのものが自らの優越性を抑圧せざるをえず、かえってそれをより深く内面化してしまうことに似ている。  こうして複製技術時代には、他方で逆説的に、虚構に対置されるような現実が渇望され、真正性や現実性が絶え間なく生産されることになる。だが、言うまでもなく、このような真正性や現実性は転倒している。複製技術時代には、真正性や現実性としての現実などそもそもありえず、それらはせいぜいメタ主体の構成要件にすぎないからである。このような意味でのメタ主体は、きわめて政治的なものでもある。現実を見よという呼びかけは、それゆえ、つねに政治の美学化として機能するだろう。しかし、どのようにその呼びかけに応えるかは、複製技術時代における人間のアポリアのように見えて、必ずしもそうではない。なぜなら、一回的な認識においては、それが虚構であろうが現実であろうがそれらを区別する意味がまったくなく、したがって、応える必要がそもそも生じようがないからである。