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[contemporary6:デフォルト宣言(複製技術時代の人間-2) /photographers' gallery 2003.6.10:http://www.pg-web.net/]


1.

 つまるところ、写真のコンテンポラリーという空間を支えているのは、そこでけっして語られることがなかったもの、すなわち価値である。むろん、どのようなものであれ、何らかの価値に支えられている。だが、そのような一般的な意味での価値が写真のコンテンポラリーを支えていると、ここで改めて言おうとしているわけではない。
 価値づけることは、写真のコンテンポラリーにおいて、暗黙の了解でもあるかのように、徹底して忌避されてきた。コンテンポラリーの幕開けから今日に至るまで、写真の良し悪しが正面から語られたことは、ほとんどなかった。優劣に変わって導入されたのは、関心、興味、反映、可能性といった中性的な概念、あるいは、好き嫌いといった類の個人的とみなされる印象である。
 これらの概念や印象には、さしたる意味はない。それらが用いられる理由はただひとつ、けっして価値づけようとしているわけではないという、ネガティヴな言明だからである。もちろん、どのような言明であれ、価値づけることから逃れることはできない。例えば、言明するという行為自体が、ひとつの価値づけであることに加えて、価値づけから逃れて言明しうるという行為を示すこともまた、自らの価値の表明である。
 したがって、はじめの文章は次のように言い直すこともできるだろう。写真のコンテンポラリーという空間を支えているのは、価値づけから逃れうるという信憑からなされる諸々の超越的な言明と、それによって形作られる明示されない価値づけである、と。
 そこにおいては、価値を相対化すればするほど言明の超越性が強化され、価値づけはかえって空間により深く埋め込まれることになるだろう。価値は語りえないということを、それらしい身振りで語った者こそが、この空間の価値を無意識的に支配することになるだろう。それは途方もなく俗化した身振りではあるが、それゆえに空間の内部に浸透し、人を動かす。
 このカルト的な構図において共有される身振りは、こうして、どのような明示的な価値に対しても優位性を保つことになるだろう。今日では、その戯画的な身振りは、互いを嘲笑する程に凋落してはいるが、だからといって影響力をなくしているわけではなく、それ以外の身振りをほかに知らないという、ただそれだけの理由によって、コンテンポラリーの住人の内在性そのものを規定するものにすらなっている。

2.

 このような写真のコンテンポラリーという空間における価値の在りようを、アイロニカルに物語っているのは、例えば、特権化された撮ることという経験であろう。それ以前も撮るという行為は特別なものではあったが、自己目的化されたものではなかった。自己目的化されることによって撮るという行為は、無目的かつ無価値であるがゆえに、特別の経験であると見なされるようになる。この、何を撮るのでもなく、写真を撮るということが先行した直接的かつ純粋な現実との交感は、写真(家)だけに許された経験となるだろう。それは無目的かつ無価値であればあるほど、逆説的に価値ある経験となるだけでなく、さらに価値ある経験であるがゆえに、記憶や直観、体験といった見えないものすら再現=表象しうるものとなる。撮るという行為は、今日いたる所でなされている、ごくありふれたものに過ぎないのに、なぜコンテンポラリーという空間においては、街を撮ると都市を考えたことになり、風景を撮ると環境や場を捉えたことになり、自分自身を撮ると自己を見つめたことになるのだろうか。無価値が価値に転化する構図なしには、いともたやすく概念的なものと結びついてしまうような、かくも特権的な撮るという行為は考え難い。
 ところで、このように具体的な価値が消え入ることによって、逆説的に、普遍的かつ無限であるかのような価値が生成されるためには、何が担保にされているのだろうか。普遍性や無限性といった、事実上無際限の価値に対応できる担保は、ただひとつ、死である。この意味で、写真のコンテンポラリーという空間における価値では、死が先取りされている。が、それと同時にそこでは、存在論的基盤を複製する可能性によって、死が無限に先延ばしにされることが裏書きされている。

3.

 具体的な価値の消点が、二つの死の交錯によって、価値を生成する普遍的な小点となる。“ある写真のプンクトゥムとは、その写真のうちにあって、私を突き刺す(ばかりか、私にあざをつけ、私の胸をしめつける)偶然なのである”*1と言ったのはロラン・バルトであったが、“そこでは「時間」の圧縮がおこなわれ、それはすでに死んでいる、と、それはこれから死ぬ、とが一つになっている”*1という在りようが、プンクトゥム=“刺し傷、小さな穴、小さな斑点、小さな裂け目”*1と名づけられたのは偶然ではなかった。

4.

 二つの死が交錯するまさにその時、倒錯的に死が畏れられ、一時性は再び持続性へと転化する。この構図において、写真のコンテンポラリーは、空間化された時間を拒み、純粋な時間の流れを謳うベルクソニズムと見事に符合する。ヴァルター・ベンヤミンはベルクソンの思考について、こう述べている。

“ベルクソンはその持続(デュレ)の観念において、ボードレールよりはるかに歴史から遠ざかっている。…ベルクソンの持続は、死を欠落させていることによって、歴史の範疇から(そして先史の範疇からも)遮断されている。これに対応して、ベルクソンの行動(アクスイオン)の概念が欠落する。…死を拭い去られた持続は、装飾の悪しき無限性をもっている。このような持続は、そのなかに伝統を持ちこむことを許さない。それは経験(エアファールング)という借り物の衣装を着て得意げに闊歩する体験(エアレープニス)の権化である。それに対し憂鬱(スプリーン)は、体験を赤裸々な姿で展示する”*2
 直観を重視するとともに、直観は本質的には語りえないとするベルクソニズムは、二つの死の交錯が一瞬浮かび上がらせる裂け目、経験と価値の非連続性を、いともたやすく美化してしまう。そこでは諸々の概念が、等質化された歴史なき歴史としての現在を切りとる単なる道具と化し、コンテンポラリーという空間を、今ここに、これではない何かを求める永遠の現在へと、同時代という不老不死の神話的な時間へと凝固させていくことになるだろう。幾度も写真に別れが告げられ、今日も、そして今日も、写真は繰り返される。

5.

 価値づけることを忌避し、互いの身振りの制度性を嘲笑し、どんなものであれ明示的な価値を見つければ、たちどころに反対する。世界や美といった大きな物語の不滅を今さらながら嘆いてみせる。そうした振る舞いを自らの責務とするコンテンポラリーの住人が好むのは、結局のところ、何もわからないのだと言明することである。いっけん反語的にみえるこの言明には、しかし、わずかにポジティブな意味が含まれている。私は…わからない、ネガティヴな言明を繰り返したすえ、自分が何をしているのか、何を言っているのか、実際のところほんとうにわからないのだ。わからないという言明の反語的な身振りには、こうして一片の真実が染み込み、その滲みにはかすかな不安が浮かび上がっている。それは、コンテンポラリーという空間においては見えないものであるが、無限に先延ばしにされた死を哀悼のうちから直観的に捉える時、鮮やかに浮かび上がる。

6.

 どのような出来事にも日付が刻まれている。時空間を同定し、自らの存在論的基盤を幾重にも複製するかのように、写真の傍らに記されている日付とは別に、滲みとして刻まれた日付もある。写真(家)が生み出された日付、可能性という救済のシナリオが描かれた日付、写真史が抵当に入れられた日付、固有名が放棄された日付、そして価値づけから逃れるために作られた数々の緊急の問題に記された日付。今ここでは、見えもしないが隠されてもいないそれらの日付が、やがて露わになる時が来るだろう。価値は語りえないという身振りを裏切り、写真なるものに裏書きされている、無限に先延ばしされた死を殺ぎ落とすという経験によってのみ、その時は今ここに訪れるだろう。

7.

 コンテンポラリーの住人が語り継ぐ責務を、こうしてその語り口の構えから捉えるならば、それは、むしろ債務と呼ぶべきものとして浮かび上がってくる。今ここで、今この時に、意志ではなく、欲望ではなく、責務として、単独に、かつ一回的に、無数になされた裏書きの無効性に署名すること。その単独の沈黙のなかで、猶予なしに、予告なしに、ただ端的に、写真なるものにまつわるすべての債務の不履行を宣言すること。おそらく、この責務を果たすことのみが、今日の写真(家)に残された真の使命であり、宿命であるように思われる。

*1「明るい部屋」ロラン・バルト
*2「ボードレールにおけるいくつかのモティーフについて」ヴァルター・ベンヤミン