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[飯沢耕太郎編著『『写真時代』の時代!』/日本カメラ2003年4月号:106]


 歴史的に物事を捉えると、あるいはこう言った方がいいかもしれないが、過去を振り返ると、あらゆる出来事は宿命的にみえる。
 『写真時代』は創刊された当時から、ある種の大人たちの支持を受けていた雑誌であったように思う。「あの雑誌はスゴイ」という声を幾度か聞いた記憶がある。そうした声には、大げさに言えば、表現のシリアスな風潮に対する自家撞着的な反感と、エロに潜在する反社会性への共感、アンダーグラウンド・カルチュアに対するほのかな憧れと、けっしてメインストリームにはなりえないものを肯定する安心感が入りまじった、アンビバレンスでナイーヴな感受性が見え隠れしていたようでもあった。
 そのような感受性を声として聞いてしまうことは、どこか気恥ずかしい。今日で言えば、コンピュータやテレビゲーム、携帯といったメディアの可能性を、頬を赤らめて語る中年男を見てしまったような気まずさがある。というのも、メディアの新たな可能性は、ほとんどの場合、それを語る者ではなく、作り出したり活用する者によって切り開かれるものであり、メディアの可能性がそのように語られる時には、そのメディアの新しさはたいたい終わっているからだ。
 このように考えてみると、『写真時代』という雑誌の画期的だったところは、創刊した時にすでに“終わっていた”ということではないだろうか。つまり、今日宿命のように伝説的と呼ぶべきものにみえる『写真時代』は、そもそも創刊時から伝説的な雑誌として作られていたのではないだろうか。むろん、そんなふうに宿命を先取りすることは不可能である。だが、ナイーヴな感受性が、『写真時代』を伝説たらしめる時代を作り出す歴史的な宿命を負っていたと考えるのは、あながち不可能ではないとも思われるのである。