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[さらに研ぎ澄まされるパーソナルな探究という写真行為:奈良原一高『Ikko Narahara』『HEAVEN[天]』/日本カメラ2003年3月号:97]


 奈良原一高は、日本の戦後の写真表現を代表する作家であると同時に、おそらくもっとも多彩な作風で作品を展開し続けてきたひとりであろう。それゆえ、奈良原の仕事の全体像は、代表作と呼ばれる作品に容易に収まることがなく、さまざまな作品を見れば見るほど、その多彩なアプローチに幻惑されるような印象すらあるのではないだろうか。
 『Ikko Narahara』は、昨年末から今年2月まで、パリのヨーロッパ写真美術館で開かれた、奈良原のはじめての回顧展に合わせて出版された写真集である。本書には、初期の「人間の土地」「王国」から、「静止した時間」「消滅した時間」「ヴェネツィアの夜」、近作の「Double Vision-Paris」といった作品までが編まれているが、こうして一冊の写真集として奈良原の展開を見てみると、そのような印象とは逆に、不思議なほど統一感があることに驚かされる。
 その理由のひとつは、本書がフランスで編まれたことにあるだろう。日本での文脈にしばられずに編集されていることに加えて、単純に日本語版でないことによって、見る側も従来の文脈から少し離れて見ることができるようになる。たとえば、日本で撮られた写真、海外で撮られた写真といった区別も希薄になり、その分、奈良原独自の眼差しが浮かび上がってきているように思われるのである。
 しかし、それだけなら、他の日本人作家の海外版写真集にもあてはまる、ごく当たり前のことにすぎない。作品の展開にかくも一貫した眼差しが感じられるのは、そのような外的な理由だけではなく、そもそも奈良原の仕事が、そうした文脈や国境を超えているような、独特の思考によって作られているからではないだろうか。
 奈良原は初期に自らの写真表現の方法を「パーソナル・ドキュメント」と呼び、次のように語っている。「人間生活と云う具体から抽象した主観が再びこの土地の具体的な人間生活の現実に投じられた場合でもドキュメントとしての意味が影を消すはずがありません。ドキュメントから出発してドキュメントに帰ってゆくのが写真の世界でもあるのだと私は思っています。だが対象への攻めの姿勢いかんによってアクチュアル・ドキュメントを生むことが出来るのではないかと思っているのです」。
 この「パーソナル・ドキュメント」という表現は当時さまざまな反響を呼んだが、今日改めて奈良原の仕事とともにこの言葉を読み返してみると、そこには、一般的に写真表現で使われている「パーソナル」や「ドキュメント」という言葉の意味には収まり切れない、深い思考が含まれているように感じられる。つまり、ここでのドキュメントとは、対象をリアルに再現することではなく、対象からアクチュアリティを見出すことであり、そのパーソナルな探究こそが奈良原にとっての写真行為であったのではないだろうか。
 新しい写真集『HEAVEN 天』でも奈良原は、パンテオン神殿から見える円形の空を捉えた「Seven Heavens-Roma」、東京の風景を幾何学的に構成した「Vertical Horizon-Tokyo」、二つの類似したイメージを合成した「Double Vision-Paris」という、独創的なアプローチを展開している。これらの作品もまた、巻末の「Notes」で述べられているように、病という体験などから導き出された、奈良原のパーソナルな探究にほかならないだろう。そしてここでの探究は、「僕達が知覚する外界もすべて実は僕達の肉体の中にある」という認識に到達するほどに、さらに研ぎ澄まされている。