texturehomeinformationtext archivephoto worksspecialarchive 2ueno osamu

[美しき寡黙なジレンマをナイーヴに照らし出した二冊の写真集:オノデラユキ『cameraChimera』、安田千絵『GRACE』/日本カメラ2003年1月号:106]


 『cameraChimera』と『GRACE』、この2冊の写真集は、収められた写真の傾向も、用いられている手法も異なっている。にもかかわらず、この2冊からは、いずれもモノクロームの写真を用いたシンプルな装丁であるという表面的なことにとどまらない、どこか似通った雰囲気があるような印象を受ける。その印象をひとことで言うなら、寡黙さである。
 オノデラユキによる『cameraChimera』に収められているのは、空間に浮遊する服、鳥の羽ばたき、光が写り込んだレンズ、空間に浮かんだ缶のような物体、ぼやけた顔、暗闇に浮かび上がる家の光、荒れた粒子で捉えられた群衆と光、といった写真である。タイトルもキャプションもなく続いていく、それらのきわめて抽象的な写真がいったい何であるのか、一見しただけではほとんどわからないに違いない。タイトル・制作年・作品サイズが記された巻末の収録作品データにたどりついて、ようやく、これらの写真が年代順に並べられたいくつかのシリーズであることが辛うじて理解できる位に、写真以外の情報が排除されているのである。
もう一歩進んで、巻末に寄せられた言語学者によるテキストを読むと、群衆の写真に写っていた光が、写真機に入れたガラス玉によるものであること、眼・鼻・口を粘土に付着させてぼやけた顔が作られているといったことを知ることができる。おそらく、ここではじめて、そうした言説と『cameraChimera』というタイトル、レンズが写った写真などを結びつけて、例えば、ここに収められた写真の多くは、写真や写真機をめぐる自己言及的なものなのかもしれない、などと考えることが可能になってくるのではないだろうか。
植物園や庭園などで多くの写真が撮られたらしい、モノクロとカラーの写真が収められた安田千絵の『GRACE』では、写真以外の情報がより徹底して排除されているように思われる。写されているものは植物という比較的具体性がある対象であるものの、美術館学芸員によるテキスト以外には、何の情報もない。そのテキストは、例えば次のようなものである。
 「安田千絵の写真は、濃密な呼気に満ちていて、その時の湿度、その場所のかげり、そこにいた彼女の体感を、ありありと写し込んでいる」「安田千絵が開いてみせるのは、これら生きている者たちの、見えがたい強さなのか。誰にも見つめられないまま、打ち捨てられた隅っこで、たんたんと時を遂げようとする者たちの強さを、彼女はみつめ続ける」
 2冊の写真集から感じられる寡黙さは、作品の自立性と言い換えることもできるだろう。作品はそれ自体完結しており、それ自体において判断されるべきである。あまりに希少な情報は、間接的にそう主張しているようにも感じられる。と同時に、写真集からは知りえない作者の行為や思考について、なぜか熟知しているかのような第三者によるテキストは、その寡黙さとは対称的な雄弁さを際立たせているようにも思われる。
 作品が内部で完結した自立的なものであるというのは、いわば近代的な夢である。しかしこの夢は、じっさいには作品の外部によって支えられるほかない。その接点の役割を果たすのは、ほかならぬ作者だが、この2冊の写真集が浮かび上がらせているのは、作品の自立を作者が望めば望むほど、接点が第三者によって保障されることが不可避であるというジレンマであろう。このかくも美しき寡黙なジレンマをナイーヴに照らし出したのが、1962年生まれの2人の女性作家であることは、果たして偶然なのだろうか。