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[contemporary4:フィールド/ノート(複製技術時代の人間-1)/photographers' gallery 2002.6.15:http://www.pg-web.net/]


1.

 数々のメディア論の中で繰り返し参照されてきた、ヴァルター・ベンヤミンの複製技術をめぐる考察は、一方で、複製技術によってもたらされた状況を照らし出すとともに、他方、それによって失われたものについては、錯綜した影を映し出す。
 複製技術によってもたらされたものとは何か。例えば次のような一節は、多くのメディア論が依拠する前提を提供してきたと言えるだろう。
複製技術は――一般論としてこう定式化できよう――複製される対象を伝統の領域から引き離す。複製技術は複製を数多く作り出すことによって、複製の対象となるものをこれまでとは違って一回限り出現させるのではなく、大量に出現させる。そして複製技術は複製に、それぞれの状況のなかにいる受け手のほうへ近づいてゆく可能性を与えることによって、複製される対象をアクチュアルなものにする*1
 では、そうした複製技術に対象を引き離された伝統の領域とは何だろうか。この一節の前の文章で、ベンヤミンはこう述べている。
芸術作品が技術的に複製可能となった時代に衰退してゆくもの、それは芸術作品のアウラである。この過程はある徴候である。この過程のもつ意味は、芸術の分野をはるかに超えて広がってゆく。*1
 このよく知られた文章が、その簡潔さとは逆に、ある不可解さを残すのは、アウラなるものがいったい何なのか、多くの手がかりが記されてはいるものの、それらが一向に明快な焦点を結ぶことがないからではないだろうか。
オリジナルのもつ〈いま―ここ〉的性質が、オリジナルの真正さという概念を形づくる。そしてまた他方では、この対象を今日まで同一のものとして伝えてきたひとつの伝統、という考え方は、真正さを基盤として成り立っている。真正さの全領域は、技術的――そしてもちろん技術的なものだけでない――複製の可能性を受けつけない。*1
そもそもアウラとは何か。空間と時間の織りなす不可思議な織物である。すなわち、どれほど近くにであれ、ある遠さが一回的に現われているものである。*2
無意志的記憶(メモワール・アンヴォロンテール)のなかに定住しつつ、ある直観の対象のまわりに集まろうとするさまざまな表象を、この対象のアウラと呼ぶとすれば、直観の対象にまとわりつくこのアウラは、ある使用対象に習熟として沈着してゆく経験にまさに対応するものである。写真機およびそれ以後に出現した類似の器械を用いた諸技術は、意志的記憶(メモワール・ヴォロンテール)の範囲を拡大する。*3
 複製は、しばしばオリジナルと対比的に語られる。しかし、オリジナルの真正さが複製の可能性そのものを受けつけないものであり、逆に、複製が対象を伝統の領域から引き離すものであるなら、複製とオリジナルはまるで違った構図に属するものであるだろう。「〈真正〉な芸術作品の比類のない価値は、つねに儀式に基づいている」*1というように、オリジナルは超越性、一回性、持続性といったものに基づく構図に属し、他方、複製は、一時性、反復可能性といったものに基づく構図に属する。
 アウラの衰退、凋落を媒介にして語られる、前者の構図から後者の構図への変容の過程もまた、単純に対比的なものではないだろう。また、それは、「芸術の分野をはるかに超えて広がってゆく」*1がゆえに、そこでのアウラという概念も、芸術作品という枠組みにとどまらない役割を果たしている。では、この変容の過程とは、どのようなものだろうか。
対象をその被いから取り出すこと、アウラを崩壊させることは、ある種の知覚の特徴である。この知覚は、〈世の中に存在する同種性に対する感覚〉をきわめて発達させているので、複製という手段によって、一回的なものからも同種性を見てとるのである。視覚の領域においてこのような現われ方をしているものは、理論の領域において、統計の重要性の増大として顕在化しつつあるものにほかならない。現実を大衆に合わせ、大衆を現実に合わせてゆくことは、思考にとっても視覚にとっても、無限の影響力をもつ過程である。*1
 複製技術は、メディアとして社会を塗り替えてゆく。しかし、大衆と現実の間で転回されるこの過程は、メディアの効果と言うよりも、むしろ大衆そのものの欲望の変容に呼応したものである。
事物を自分たちに〈より近づけること〉は、現代の大衆の熱烈な関心事であるが、それと並んで、あらゆる所与の事態がもつ一回的なものを、その事態の複製を受容することを通じて克服しようとする大衆の傾向も、同じく彼らの熱烈な関心事を表わしている*1
 複製技術がオリジナルの一回性を無効にし、事態の在りようを変容させたのではない。そうであるなら、ここで言われていることは、例えばメディアはメッセージであるという言葉に代表されるような一種の形態論を、若干先取りしたものにすぎない。そうではなく、大衆が自ら望んで複製を受容することによって一回性を乗り越えていく過程において、複製の可能性を育んでいくのである。そこでは当然、大衆そのものを吊り支えていたものでもある超越性もまた、複製可能なものとみなされることになるだろう。一回性、持続性は恣意的なものとなり、大衆が構成する現実を彩り、かつ、位置づけることになるだろう。大衆と現実の間で転回される過程において、アウラは崩壊する。しかし、それは人間の外部で崩壊するわけではない。大衆の知覚において、つまり、それと気づかずになされる存在論的な転回において、人間の内部で崩壊するのである。それゆえ、アウラはたんに崩壊するのではなく、いわば大衆の想像的な影へと凋落し、例えばあたかも記憶のように、大衆を自律的に動かすものになるだろう。

2.

大量複製の技術にとくにふさわしいのは、大衆を複製することである*1
 ここでベンヤミンが言っているのは、むろん大衆そのものの複製ではなく、大衆を映像として複製することである。しかし、複製を通して反復可能性に溶け込んでいく大衆にとって、映像として複製されることはまた、その存在論的基盤でもあるだろう。
人間が器械装置に代理されることで、人間の自己疎外は、きわめて生産的に利用されることになった。…器械装置を前にして俳優が抱く違和感は、人が鏡に映る自分の像――ロマン主義者たちは、このテーマについて長々と述べるのを好んだ――を前にして抱く違和感と、もともと同じ性質のものである。しかしいまや、この鏡像は人から切り離しうるようになった。それは運搬可能になった。*1
複製技術による展示方法の変化は、政治においても見られる。…民主主義は政治家を直接に生身で、しかも議員たちの眼前に展示する。議会は彼の観衆である。ところが録音・撮影器械の改良によって、演説する人の声を演説中に無限に多くの人びとが聞き、その姿を演説の直後に無限に多くの人びとが見ることができるようになると、政治家をこの器械装置の前に展示することのほうが前面に出てくる。…放送と映画は、職業的俳優の機能を変化させるだけでなく、たとえば政治家のように、その前で自分自身を演じる人間の機能をもまったく同様に変化させる。*1
「展示価値が礼拝価値を全戦線において押しのけはじめる」*1のは、芸術作品にとどまることではない。複製技術時代においては、人間もまた展示可能になる。鏡の隠喩は、今日でも好まれている写真と自己についての語りくちだが、例えば、それは自らをその語りのなかでロマン主義者として複製し、展示しているにすぎない。そうして、もはや不思議でも不可解でもない鏡や写真が、謎としてことさら強調されるのは、それが想像的な影と化した記憶へのささやかな慰めの身振りであると同時に、それによって自らの存在論的基盤が形成されるからであろう。こうした人間の機能の変化において、見ることもまた変容せずにはいられないだろう。
見つめられている者、あるいは見つめられていると思っている者は、まなざしを打ちひらく。ある現象のアウラを経験するとは、この現象にまなざしをひらく能力を付与することである。無意志的記憶(メモワール・アンヴォロンテール)の発掘物はこのことに対応している*3
 ある現象によってまなざしが開かれることがあるのは、一回的な経験がありえた、アウラの凋落以前の時空間においてである。しかし、アウラが大衆の想像的な影へと凋落した時空間では、一回的な経験によってまなざしが開かれることはありえない。それだけでなく、見ることは、もはやまなざしとは何の関係もない行為となり、複製の可能性を切り開く機能のひとつへと転化していくだろう。複製技術に驚愕し、大衆を辛辣に批判したボードレールは、そのことにいち早く気づいていた。それゆえ、「反応をもとめて人間のまなざしに向けられた切実な期待が、空しい結果に終わること」*3を通して、「ボードレールは、見つめる能力を失ってしまったと言えるような眼を描いている」*3のである。そうした人間の機能の変化による、自己疎外の生産的利用を体現してみせたのもまた、ボードレールであった。
ボードレールは自分の作品の不評に直面して、ついに自分自身を景品として添えることにした。自分の作品に自分をただでくっつけ、そうすることによって、詩人にとって避けえない売春の必要についての彼の考えが正しかったことを、自分自身に関して完全に証明した*4
ボードレールの文学は、〈新しいもの〉を〈繰り返し同じであるもの〉において、〈繰り返し同じであるもの〉を〈新しいもの〉において発現させる。*4
 複製技術時代の時空間において、新しいものと、繰り返し同じであるものは、互いに入れ子になり、互いを見出し合う。これはいっけん、例えばモードという概念からは説明しきれない、奇妙な近代性の構図のようにもみえる。しかし、自己疎外の利用において生産されるものが、自己の複製であるなら、それは何ら奇妙ではないだろう。
今日の人間のあり方からすれば、根本的な新しさはひとつしかない。そしてそれはつねに同じ新しさである。すなわち死。*4
 アウラを自らの内部に溶解させるとともに、一回性、持続性を一時性、反復可能性へと転化していく複製技術時代の大衆が目的とするのは、つまるところ、大衆それ自身の存在論的基盤を複製することである。そこにおいて、大衆それ自身の存在論的基盤を複製することと、大衆そのものを複製することに違いはあるだろうか。複製技術時代の人間もまた、かつての人間と同じように、死を畏れる。だが、それは存在が消滅することへの畏れではない。死のみが、根本的な新しさを浮かび上がらせ、存在論的基盤を複製することと存在を複製することの等価性、つまり、けっして死ぬことがなく、したがって生きることがなかったことを照らし出してしまうがゆえに、倒錯的に死が畏れられるのである。
 ところで、このような構図を、「「写真」とともに、われわれは「平板な死」の時代に入ったのである」*5と、端的に指摘したのはロラン・バルトであった。
「写真家」はいわば猛烈に生き生きとしたものの専門家であり、われわれはその生き生きとしたもの〔写真〕をアリバイにして、「死」を否認しつつ引き受けるのだ*5
今日、われわれ人類が向かいつつあるのは、どう見てもつぎのような無力な状態である。すなわち、持続を感情的、象徴的に把握することが、やがてできなくなるということ。「写真」の時代は、革命の、異議申し立ての、テロ行為の、爆発の時代、要するに我慢しない時代、成熟を拒否するあらゆるものの時代でもあるのだ。――そしておそらく、《それはかつてあった》という驚きもまた消え去ってゆくのであろう。いや、それはすでに消え去ってしまったのだ。*5
 ヴァルター・ベンヤミンとロラン・バルトの、ふたつの奇異な存在論は、こうして死において交錯する。複製技術が大衆そのもの複製の可能性を育んでいくものならば、バルトが見出した写真のノエマは、複製技術時代の人間の本質でもあるだろう。「写真の不動状態は、いわば「現実のもの」と「生きているもの」という二つの観念の倒錯的な混同から生じた結果だからである」*5。すなわち、《それは=かつて=あった》のは、他ならぬ人間それ自身でもあっただろう。

3.

 複製の可能性が切り開かれたことによる、人間の変容のこうした構図それ自体は、さして目新しいものではない。例えば、人間の死、シミュラクルといった言葉で形容される構図を変奏することは、日常の隅々にまで浸透しているとさえいえるだろう。しかし、その構図が実際にはいささかも基底的なものではなく、むしろそういった変奏それ自体こそが原理的であるとすればどうだろうか。倒錯的に死が畏れられるそこでは、持続性を一時性へと転化することは同時に、一時性を持続性へと倒錯的に転化することでもあるだろう。生の在処を倒錯的に見出そうとするそのような無時間的な過程もまた、日常の隅々にまで浸透したものではなかっただろうか。そうした、超越性を無根拠に乗り越えようとする超越性の絶え間ない進歩の過程は、構図としては無限後退を描きつつ逆説的にメタ的な諸問題を構成し、メタ的な諸問題のなかに日常性と超越性を融合させる、カルト的な生の在処を日常化していくだろう。
進歩の概念を、破局の概念に基づかせなければならない。〈このままずっと〉事が進むこと、これがすなわち破局なのである。破局とはそのつど目前に迫っているものではなくて、そのつど現に与えられているものである。*4
いかなる事実も、それがなにかの原因だとしても、そのことだけですでに歴史的事実なのではない。それは、死後の生において、何千年も隔てられているやもしれぬもろもろの出来事によって、歴史的事実となったのだ。このことから出発する歴史家は、数珠を爪繰るようにもろもろの出来事の連なりをたどることをやめる。自分自身の時代が以前のある特定の時代と出会っている状況布置(コンステラツィオーン)を、彼は把握する。そのようにして彼は現在の概念を、メシア的な時間のかけらが混じりこんでいる〈現在時〉として根拠づけるのである。*6
未来のどの瞬間も、メシアがそれを潜り抜けてやってくる可能性のある、小さな門だったのだ*6
 人間の内部へと凋落していくアウラを見出したベンヤミンは、時間性そのものを全く違った可能性から捉えようとした。想像的な影を、日常性のなかで再び持続性や一回性に転化させるのではなく、反復可能性や一時性そのものを哀悼のうちから捉えようとする歴史哲学は、メタ的な逆説に拠ることなく一回的な認識を照らし出す。コンテンポラリーという時空間が、歴史的であるとともに歴史を拒み、現在であることが拠り所である逆説に満ちたものであるのなら、その表現の過程とはまた、カルトか歴史哲学か、絶え間ない選択なき選択を宿命的に迫る歴史でもあったのではないだろうか。
 
*1「複製技術時代の芸術作品」ヴァルター・ベンヤミン
*2「写真小史」ヴァルター・ベンヤミン
*3「ボードレールにおけるいくつかのモティーフについて」ヴァルター・ベンヤミン
*4「セントラルパーク」ヴァルター・ベンヤミン
*5「明るい部屋」ロラン・バルト
*6「歴史の概念について」ヴァルター・ベンヤミン