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[自主運営ギャラリーによる外部へのゲートウェイ:『photographers' gallery press no.1』/日本カメラ2002年8月号:170]


 『photographers' gallery press no.1』は、東京・新宿に昨年オープンしたphotographers' galleryの活動とともに、写真表現の現在を編んだ一冊である。展覧会記録や、webでの活動の記録だけでなく、現代写真をめぐる座談会やシンポジウム、2001年の年譜なども収録されており、昨年の写真表現をめぐる状況を、ある程度見渡すことができるものになっている。
 photographers' galleryは、メンバーによって運営されている。このような形態は、いわゆる自主運営ギャラリーとして、写真表現では断続的に試みられてきたものでもある。その背景には、かつては写真を展示する場がほとんどなかったことや、写真に関心を持つ者が集う適切な場がなかったことなど、日本の現代写真独特の事情があるだろう。と同時に、今日から振り返れば、自主運営ギャラリーは、現在の写真表現を担う人材を多く輩出してきた場でもある。つまり、ある意味で自主運営ギャラリーは、今や現代写真の歴史の一部になっていると言っていいだろう。
 しかしながら、そうした自主運営ギャラリーの活動は、これまで充分に言葉や情報として外部に伝えられ、開かれてきたわけではない。言い換えれば、その時代を経験した者しか知りえない活動として、いわば伝説化される傾向があったことは否めないだろう。その時代時代の事情もあるにせよ、既存の制度に満足できずに作られたはずの自主運営ギャラリーが、その後いくらでも情報化できる機会を得ながらも、経験の口承伝聞に自らの活動を封じ込めるという、もっとも典型的な神話化へと展開していったことは不可解としか言いようがない。場がないから自分たちで作ったはずの自主運営ギャラリーが、理解されなくても構わないという、いっけん潔い認識を常套句にしながら、いつの間にか、自分たちだけはわかっている、ほんとうにわかっているのは自分たちだけ、といった自己憐憫まじりのスノビズムを生んだ場でもあったとは想いたくないが、しばしば見うけられる、今や自らが制度を担うようになりながらも、自分だけは制度から免れていると思いこむ未開の思考の光景は、そういった反転したスノビズムが現在の写真表現の無意識にまで浸透していると考えるのでなければ、理解し難いものでもある。
 photographers' galleryに、従来の自主運営ギャラリーとは違った展開が感じられるのは、そうした無意識的な陥穽に対して自覚的であり、それがつねに外部に対して自らの活動を開いていこうとするプロデュースにつながっているところではないだろうか。外部に自らを開くというのは、いっけん容易にみえる。例えばwebというメディアは、建前としては万人に開かれている。しかし、それが内部に対しても開かれていればいるほど、外部に対しての閉域になるだろう。現在では日常ですらあるwebというメディアに、過敏に反応してナイーヴな閉域を作ってしまっている例は、写真では枚挙に暇がない程ですらある。photographers' galleryの端正な白いギャラリー・スペースや、必要な情報に適切にアクセスできるサイト(http://www.pg-web.net/)は、そのような閉域に陥ることを避けつつ、内部に対して親和的ではないかもしれないが、外部に対する明瞭なゲートウェイを形作っているように思われるのである。
 そうした活動の集成であると同時に、photographers' galleryがギャラリー、サイトに続く第三のメディアとして送り出した『photographers' gallery press no.1』は、見ていてスリリングな本であることはもちろんだが、1480円で外部からアクセスできるゲートウェイとしても魅力的である。