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[木村伊兵衛という粋を語る無粋さ…:田沼武能・金子隆一監修『定本 木村伊兵衛』/日本カメラ2002年5月号:150]


 木村伊兵衛を形容するのに最もよく使われる言葉は、「粋」であろう。とするなら、木村ならではの写真の持ち味を以心伝心で理解する者は、さしずめ「通」といったところだろうか。
 逆に言えば木村の写真は、にわかには理解できないところがある。本書の監修者の金子隆一は、次のように述べている。
 〈木村伊兵衛の写真は分類することができない。より正確にいえば、写されている対象、被写体によって分類することができない。また写真史的な美学――ピクトリアリズムや新興写真、リアリズム写真――によって分類することもできない。さらにその社会的な効用、――肖像写真、広告写真、報道写真――によっても分類することができないのだ。…もちろん分類すること自体は可能である。…にもかかわらず、「木村伊兵衛の写真」というある一般性、生涯を通じてその写真がもっていた共通性を見ようとするとき、その分類は役に立たないという以上に、何か大事なものがするりと抜け落ちてしまうように思うのは私だけであろうか。〉
 別の言い方をするなら、木村の写真をあれこれと分類して理解したつもりになるのは、「無粋」ということだろう。金子は続けてこう言っている。
 〈この分類しても見えてこない、出来ばえだけを見ても見えてこない「イキ」という写真作品の「行間」こそが、木村伊兵衛の「写真」のありかなのではないだろうか。それはまた一枚の写真の、ひとつの写真作品の向こう側にある「写真」の本質であり、可能性であるというべきものであろう。〉
 では、この「写真」とはいったい何だろうか。むろんそれは語りえない。「粋」について語ることほど、「無粋」なことはないだろうから。と同時に、日本の近代写真を代表するような存在である木村の「粋」を理解しえないような者は「通」ではなく、「写真」について語る資格はないだろう。
 木村と言えば懐のライカが代名詞であるように、その写真は当時の最先端の技術によって可能になったスナップショットによって写されている。実質的にはともあれ、この最先端の技術の核心は、誰にでも使うことができる機械という可能性を開いたことであるはずである。しかしながら、それによる表現が、このようにいわば語りえない秘術に封じ込められ続けているのは、いささか不可解なことではないだろうか。
 この、語る資格が語りえないことを知ることであるような不可解なジレンマは、日本の近代(現代)写真の無意識を形作っているものでもあるだろう。であるなら、今日木村の「写真」を見る者は、それを理解するならこの無意識に封じ込められるという二重のジレンマに出会わずにはいられないだろう。多くの未発表作品を収録し、詳細な年譜とデータを収めた木村伊兵衛の定本を自称する本書が浮かび上がらせるのは、かくも悩ましい写真の美学であるように思われる。