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[場所なき場所にシフトする写真の現代:佐内正史『俺の車』・ホンマタカシ『東京の子供』/日本カメラ2002年4月号:166]


 写真表現が、私的、パーソナル、プライヴェートといった言葉で形容されるようになって久しい。かつては社会的な文脈と対照的に用いられていたであろうそれらの言葉も、半世紀弱の時を経て、現在では自明性を獲得していると言っていいだろう。
 『生きている』『わからない』といった写真集で注目されてきた佐内正史の新刊『俺の車』は、まさにそうした自明性を感じさせる一冊だ。ごく単純に言って、自分の愛車を撮った写真が、単刀直入に『俺の車』というタイトルで写真集になるということ自体が、以前には考えられなかったことだろう。収められている写真も、お気に入りのアルバムを感じさせるもので、この写真の身近さは、現代の写真表現を超えて、遠くラルティーグまで遡らないと例えるものがないのではないだろうか。
 『東京郊外 TOKYO SUBURBIA』などで知られるホンマタカシの新刊『東京の子供』も、別の意味で、現代の写真表現を超えた、とりとめのなさが感じられる写真集である。写されている子供たちは、みな無表情で、不気味ですらある。というより、ここでの子供たちの表情は、これまでの写真の文脈からは読みとることができないものであると言った方が正確かもしれない。それゆえ、この不気味さは、現代の写真表現の修辞法から逸脱した写真と子供の不気味さでもあるだろう。
 かつてコンテンポラリーという言葉がみずみずしかった頃、つまり、現代の写真が社会的な文脈と対照的に自律性を獲得しようとしていた頃、日常的であることは、自律性を演出するのに不可欠な自己言及であり、したがって、私的であることが独特な価値たりえた。しかし、いわばポスト・コンテンポラリーな写真にとっては、そうしたことは自明のことに過ぎない。それよりも、ポスト・コンテンポラリーという言葉が、あり得ないものを名指した冗談のような響きがあるように、同時代を超える同時代ということが冗談めいた自家撞着を含み込んでしまうことをいかに演出しうるのか、そうした場所なき場所に写真の現代はシフトしているように思われる。