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[写真にまつわる、歴史的、同時代的な深い考察と…:西井一夫『20世紀写真論・終章 無頼派宣言』/日本カメラ2002年1月号:142]


 『20世紀写真論・終章 無頼派宣言』という、いっけん教科書的な、しかし、いわば時代錯誤で、いわばパロディのような題名の本書は、ひとことで言えば異様な本である。他界した著者の本に対する形容として、異様という言葉は適切ではないかもしれないが、この過剰さは異様としか言いようがない。
 1980年から2001年にかけて書かれた文章が再編された本書は、写真にまつわる歴史的、同時代的な深い考察で満たされているが、それと同時に、食道ガンを宣言された自身の病状や、死期を前にした自身のスタンスの表明、そしてほとんど私信のような文章が至るところに混在している。しかし、異様なのはそのことではない。そうした混在は、多かれ少なかれ誰の評論にもみられるものだからだ。異様なのは、それが本書を非常に読みにくいものにすることを著者自身が充分知りつつ、あえてそうしている過剰さである。
 〈私が写真についてモノを書いたときには、つねにこれだけの歴史・社会的バックを背負って、同時代への責任をも負って、語っているのだ、ということを知っておいていただきたいと思う。小言幸兵衛のように、言いたくて小言を言っているのではない。言いたくないが、言わねばならないという意志を持って悪口雑言を述べているのである〉
 日本の写真表現を振り返ると、編集者や評論家が果たした役割がけっして小さくないにもかかわらず、文脈的にはそうした役割を軽視するという伝統的な傾向がある。つまり、編集者や評論家は、どこまでも表現の外在的なものと見なされるのである。編集者かつ評論家でもあった西井一夫の、そのような傾向に対する苛立ちは想像に難くない。だが、その生を賭した苛立ちにもかかわらず、本書もまた伝統に従っていずれ軽視され忘却されることになるだろう、他ならぬ本書を忘却してはならないと共感する人々によって。
 そう考えるとき、存在感を放つ違和感が溢れた本書の異様さは、唯一の正しい選択であったように思われる。そして、書くことに対する誠実さで贖われたこの選択による異様さは、比類なく美しい。