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[contemporary3:日付、場所、連続性 (short mix)/photographers' gallery 2001.12.10:http://www.pg-web.net/]


・写真のコンテンポラリーがまず獲得しなければならなかったもの、それは自律性である。歴史的に言えば、写真のコンテンポラリーとは、言語的コンテクストから離脱しようとする写真表現とほぼ同義である。

・しかしながら、言語的コンテクストからの離脱と、自律性の獲得は同義ではない。一般的に言って、自律性の獲得のために要請されるのは、自己同一性とその連続性であろう。写真のコンテンポラリーもその例外ではなかった。

・写真のコンテンポラリーを特徴づけるものは、反・美学、反・意図、反・出来事、あるいは反・写真といったものではない。それらはどちらかと言えば、言語的コンテクストからの離脱の表明のための修辞にすぎない。だが、それらの修辞はその否定性において、自己同一性とその連続性の獲得の困難さを物語っているだろう。

・否定的な修辞がもたらした均一性の背後で、いっけん慎ましく、しかし驚くべき強度をもって導入されたものがある。写真の傍らに記された日付と場所がそれである。それらはさりげなく、しかしあたかも一種の証明のように、その写真が属する時空間を同定する。

・日付と場所は、写真のコンテンポラリーにとって言語か否か。これは興味深い疑問であるが、それが、言語的コンテクストからの離脱と、自己同一性の獲得、そして現実的なるものが交差する地点にあることは確かだろう。

・写真の自己同一性とは何だろうか。単純化するなら、自己同一性を保障するものは反復可能性であろう。しかし、写真の複製可能性は、反復可能性を先取りすると同時に、自己同一性を無意味化せずにおかないだろう。少なくとも、複製可能性から導き出される自己同一性は、連続的なものではないという点において、自律性を保障する類のものではないだろう。

・連続性とは無縁のものである、複製可能性から導き出される自己同一性を、自律性と取り違える時、コンテンポラリーの空間における写真は、大数の法則に支配される独立事象的なものになるだろう。とするなら、写真のコンテンポラリーが展開する連続性は、実際には、つまるところ確率論的物語であるだろう。確率論的物語とは、予定調和ではないかも知れないが、予見に収斂する物語の外のものではない。

・そもそも、写真のコンテンポラリーが、自己同一性とその連続性を内包することは可能だろうか。自己同一性とその連続性の外部には何があるのだろうか。言語的コンテクストからの離脱が可能かということを問うことがなかった写真のコンテンポラリーは、この問いに答えることができないだろう。この問いの不可能性は、確率論的物語以外の物語の可能性を思い描くことも不可能にするだろう。

・ところで、日付と場所によって時空間が同定され、現実的なるものが保障されることがいささかもない、写真のコンテンポラリーというものを想像できるだろうか。おそらくは同定するために見るということからは遠く隔たっているであろう、そうした写真のコンテンポラリーにおいて、見るということは、いわば見るものがないということを見ることにほかならないだろう。そのような見るという営為を想像することはできるだろうか。