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[contemporary1:ここではなく、今ではなく、(ではなく)。/photographers' gallery 2001.7.27:http://www.pg-web.net/]


 はたして、誰が写真を見たことがあると言うのだろうか。
 個別的で、明示的な写真ならば、もちろん誰もが見たことがあるだろう。しかし、主語として語られるような写真、つまり、写真は、写真とは…、という語りのなかで、それとなくすでに、つねに存在してきたかのように自らを徴づける写真を、はたして誰が見たことがあると言うのだろうか。
 コンテンポラリー、現代的な…、同時代的な…、奇妙な言葉である、歴史的であるとともに歴史を拒み、現在であることが拠り所であるということは。今この時に時間的な証を求め、今ここに空間的な証を求めることは、不可解な同語反復と言うべきではないだろうか。
 コンテンポラリーという時空間は、その奇妙な定義上、つねに現在へと自らをずらしつつそこに回帰する。永遠に、つねに、すでに現在へと回帰している時間は、無時間と同じである。無時間的な空間とは、いわば幻のようなものにすぎない。
 主語として語られるような写真、誰もが見たような気分につつまれつつ、誰一人として名指すことができないような写真が、コンテンポラリーという今ここに、今この時に、あたかもそれが自明のものであるかのような強度を持って共有されてきたのは、偶然ではないだろう。そこでは写真をめぐって、何と多くの言葉が交わされてきたことだろう。幾度となく可能性が語られ、乗り越えるべきものが示されてきたが、可能性とは何かが語られることはなく、乗り越えた先にあるものが示されることもけっしてなかったのは、可能性とは写真のコンテンポラリーそのものであり、乗り越えた先にあるのもまた無時間的な空間だからだろう。そして、このような空間のなかにいる限り、このような空間のなかに写真がある限り、写真をどのように語ろうとも、それはすぐさま同時代へと折り返され、写真の不可解さを、写真の奇妙さを語るものへと溶解していくだろう。
 だが、写真について考えることは、ほんとうにかくも困難で定位しがたいものなのだろうか。写真は、写真とは…、という語りによって、それが不可解で、奇妙なものに見えてしまうのは、無時間的な空間のなかでは、写真は現在への回帰によって消去され、じつは、すでに、つねに見ることができないからではないのだろうか。この写真が無限に反復されるような空間においては、乗り越えることそのものが先取りされることによって、可能性は不可能性と同義のもの、つまり可能性そのものが意味のないものに変質しているのではないだろうか。
 しかし、このコンテンポラリーという無時間的な空間は、もちろん恒常的なものではない。無限の反復が現実においては不可能であるように。それは、不可能性を可能性に置き換えることによって、ある強度をもって共有されてきた、いわば夢のようなものであったのではないだろうか。そうであるなら、この夢を、写真一般に還元すべき理由がどこにあると言うのだろう。
 写真について考えることを可能にしようとするならば、この無時間的な空間、コンテンポラリーのなかで写真を見ることをやめ、そこではけっして見ることができなかった、消去された写真を見なければならないだろう。ただ端的にこの夢から覚め、消去された写真を見ることは不可能なことなのだろうか。不可能なことは、むしろそこでの可能性であったならば、その不可能性にこそ触れなければならないのではないだろうか。
 かくして、ここでの絶対的な仮説は、今この時を、今ここを否定するのではなく、今ここで、今この時に、あらゆる写真の可視性を裏切り、不可能性を開くことに傾けられていくことになるだろう。