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[見る者を誘惑する「写真的と言うほかないような何か」:金村修『SPIDER'S STRATEGY』『Happiness is a Red before Exploding』/日本カメラ2001年4月号:194]


 ここにある金村修による二冊の写真集は、途方もなく寡黙である。写真のキャプションもほとんどなく、作者による言葉もどこにもない。
 にもかかわらず、あるいはそれ故に、これらの写真集は見る者を雄弁に誘惑している。それは、収められた一枚一枚の写真が魅力的だからだろうか。それだけではないだろう。画面の中に都市の光景が濃密に構築された写真は、たしかに遠景と近景が圧縮され一枚の平面の中で展開されるという、方法論的な効果が存分に発揮されたものではあるが、逆に言えば、すべての写真がその効果によって埋めつくされているこれらの写真集は、むしろ単調ですらあるからだ。では、一枚一枚の写真に写されている記録や記憶といった差異に見る者は引き込まれるのだろうか。そうではないだろう。というのも、そういった写されたものと場所との関連は、何の注釈もないことによって剥ぎ取られ、さらに、写真集そのものには、『SPIDER'S STRATEGY』『Happiness is a Red before Exploding』といった、写されたものと直接には何の関係もないタイトルがつけられることによって切断されているからである。
 するとこれらの写真集の何に、見る者は誘惑されるのだろうか。端的に言えばそれは、写真的と言うほかないような何かにほかならないだろう。もちろん、これは答えになっていない答えである。なぜなら、写真的と言うほかないような何かとは何かという問いが、ここに続いてすぐさま浮かび上がってくるからだ。しかしそれは同時に、答えのすべてでもある。何かを写真的と言うほかないのなら、そこに付け加えるべきものは何もないからである。この、問いを雄弁に発しつつ、同時に問いを沈黙の中に封じ込めるような空間の中でこそ、金村の写真は見る者を誘惑する力を生じさせているのではないだろうか。
 いっけん、この空間を写真の自律性と呼んでもいいように思われる。例えば、これらの写真を、美術の抽象表現主義における平面の自律性になぞらえて捉えることもできるだろう。だが、浮かび上がっては自らを消去していく、写真的と言うほかないような何かは、それにとどまらない空間を展開しているようでもある。
 つまるところ、ある意味で、写真と言うほかないような何かを言い当てることはさほど難しくはない。写真と言うほかないのだから、それは写真なのだ。写真は写真であるという、しごく自明でありながら、あるいはそれ故に深遠で原理的な空間にこそ、見る者は誘惑される。写真は写真であることを、誰も問うことができない。なぜなら、それを問うことは、写真は写真であることをすでに前提にしているのだから。こうして、問いが浮かび上がると同時に掻き消されるような暴力的で寡黙な空間の中に、見る者はいわば自発的に誘惑されていくことになる。
 しかしながら、この写真は写真であるという空間は、あらゆる原理がそうであるように、外部から見ればある種の物語でもある。写真は、と、写真である、の間に、日本の、都市の、そして作者の、といった外部から入り込むコードは、写真が写真であるという空間が、すでに物語であることを浮き彫りにする。これを回避するためには、写真のキャプションや作者による言葉といったものにとどまらず、あらゆるコードが消去され続けられなければならない。さもなければ、この原理の中で見出されていたものや現実は、すぐさまファンタジーやフィクションに転化していくだろうから。
 この無限の消去とは、果たして可能なのだろうか。それが可能か不可能かは知る由もないが、ふだん無意味に発せられている写真の可能性なるものが、この二冊の写真集によって真摯に照らし出されていることだけは確かだろう。