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[終末論的な認識をもとに〈「眼」の語りべ〉が浮かび上がらせた東京という都市の謎:大倉舜二『Tokyo X』/日本カメラ2001年3月号:170]


 『Tokyo X』は、いかがわしい。
 過密の街、溢れ出しそうな人混み、乱雑な住宅、米軍、女子高生、ショーウィンドウ、厚底靴、ピアッシング、廃棄されたコンピュータのチップ、ポルノ雑誌、風俗店、ギャンブル、消費者金融、信仰、カップル、ビジネスマン、高層建築、倦怠、テレビモニタ、老人、ホームレス、オブジェといった、考えられる限りの東京の過剰さ、いかがわしさを示すものがここには収められている。
 しかし、『Tokyo X』がいかがわしいのは、そうした東京の過剰さがイメージとして凝縮されているからだけではあるまい。むしろ、ある意味で、そうした東京の過剰さはこれまでに幾度もイメージ化されてきたものであって、現実としてはいかがわしいものであっても、イメージとしては、さほどいかがわしいものではないとも言えるのである。
 では、『Tokyo X』が醸し出す、このいかがわしさとは何なのだろう。
 本書を見ていてまず感じるのは、例えば、まるで外国人が撮った日本のようだという印象である。それは、いかがわしい東京を象徴的にあらわすイメージが集められているからなのかも知れないし、あるいは、多くのイメージが伝統的な写真の文法にのっとって撮られたモノクロームだからなのかも知れない。またあるいは、『Tokyo X』というタイトルがそう感じさせるのかも知れないが、要するに、いかがわしい東京を撮しとめようとする律儀なまでの作者の姿勢が、そうした印象を抱かせるのであろう。作者は、自身の世界観と本書について、次のように言っている。
 〈私は今、この世界にはヒエラルキーの頂点の聖域で、神のような悪魔のような地球を覆い尽くす、人智も宗教も超越した膨大な権力を持った指揮者が存在するのだということを信じて疑わない。タイトルの「Tokyo・X」は文字通り訳がわからない東京であり、怪しげな影が忍びよる東京であり、「?謎」の東京の意なのだが、豚の名前でもある。東京都畜産試験場が7年の年月を費やして、北京黒豚とバークシャー、デュロックの三品種を国際交配し、開発造成に成功した。日本種豚登録協会にも認定されているグルメ向きの輝かしい高級豚の品種名が「トウキョウX」なので、気にいっているのだが、東京以外のカットもあるので『X・JAPAN』とするのが正しいのだろう〉
 律儀なまでの作者の姿勢とは、言い換えれば、古風なまでに東京のイメージに忠実な、こういった作者の認識でもあるだろう。「訳がわからない東京」「怪しげな影が忍びよる東京」といった、謎めいたいかがわしい東京のイメージは、ひとことで言えば世紀末的、ないしは終末論的な認識であり、そのいくつかが現実化し、そのいくつかは現実性を失った、90年代を通してリアリティが流れ落ちた認識のように思われるのである。
 にもかかわらず、本書で作者はそうした東京のイメージに徹底してこだわった。語弊を恐れずに言うならば、『Tokyo X』のいかがわしさとは、写されたもののいかがわしさではなく、徹頭徹尾生真面目な作者のこだわりであり、そこから生まれるまなざしなのではないだろうか。例えば、その生真面目さは次の一文にもあらわれているだろう。
 〈かつてない経済的混乱と、すべてがコンピュータに吸収され、バーチャル化する幻のような東京に強い刺激をうけ、気をとりなおして、世紀末における「眼」の語りべとして、この仕事をやり終えることが出来た〉
 今日、バーチャル化した世界とは、幻と言うよりひとつの現実であろう。おそらく、バーチャル化した現実を生きる世代ならば、「眼」の語りべたらんとはせず、例えば、気分を共有しようとしたりするところだろう。だが作者は、そのような選択はせず、終末論的な認識をもとに、謎めいた東京が在ると確信し、確信によって開かれた「眼」によって、それを写真に定着しようとした。現実化したものの中に幻を見ようとする、このナイーヴさこそが、『Tokyo X』を途方もなくいかがわしいものにし、倒錯的に東京という都市の謎を体現しつつ、鋭く浮かび上がらせているのではないだろうか。