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[戦後日本写真史・第7回/nikkor club #171 2000 early spring:40-43]


自主的な活動

 前回は、60年代の後半から70年代にかけての大きな転回点に注目し、紆余曲折を経ながら独自性を探ってきた写真表現が、写真家という個人において捉え直されるようになった傾向に焦点を当ててみました。
 この傾向はその後も、今日に至るまで、写真表現の根底に流れながら、さまざまな現象としてあらわれてくることになります。
 70年代における、こうした傾向の顕著なあらわれのひとつが、写真家たちによる自主的な活動でしょう。70年代の半ばには、既存のメディアに頼らず、ギャラリーや雑誌などを自主的に運営することで、活動の場を切り開いていこうとする潮流が生まれてくるのです。『インディペンデント・フォトグラファーズ・イン・ジャパン1976-83』の序文で、こうした活動の当事者でもあった編集委員の金子隆一、島尾伸三、永井宏は、自主的な活動が生まれてきた背景について、次のように考察しています。
 「1960年代の高度成長という時代の波のなかで、日本の写真家は大きな成長を遂げ、グラフィカルな写真の時代をかっ歩しはじめたのだが、オイルショックによる痛手によって、前途洋々であったはずの写真の時代は、一部の特権的な写真家以外は、その作品の発表の場を失い、クリエイティヴな写真の時代の波は終わりを告げたかのような状況であった」。
 「しかし、70年代に入ってもなお写真家の卵は次々と産声を上げた。彼らは高度成長時代の写真のイディオムを、最もロマンティックに感じとり、受けとめさせられた世代となった。写真家はデザイナーと同等の新しい時代の花形的な職業でもあると信じていられる社会環境のなかで育ち、写真を学んでいれば現代を創造的に生きることができるという未来を、彼らはある程度ではあるが確信させられていたのである」。
 「しかし現実は違っていた。写真家という花形職業は社会的幻想としては根強く残ってはいたものの、受け口はすでに閉ざされ、個々のアイデンティティをカメラとともに考えるといった本質的な職業写真家としての道は、まったく別の形態を持たざるをえなかったのである。それは唯一、写真の芸術性、表現を追求する方向であり、写真家であるためのステイタスは、経済性とはまったく無縁の精神性のなかで守られつづけてゆくことになるのである。それはまた1960年代後半からの学生運動に強く影響されながらも、今までの時代の背負ってきた前現代性を切りはなそうとする、まったく別のイデオロギーを探しもとめる時代でもあった」。

「ワークショップ写真学校」と「CAMP」

 このような時代背景の中での、自主的な活動の兆しの典型として、1974年から76年まで続いた「ワークショップ写真学校」の活動をあげることができるでしょう。荒木経惟、東松照明、深瀬昌久、細江英公、森山大道、横須賀功光らがそれぞれ教室を持ち、寺子屋スタイルで授業を進めていったこのワークショップは、夏季セミナー、地域ゼミナール、合同写真展、機関誌の刊行なども行い、短期間ながら多彩な側面を持った活動を行い、写真表現に影響を与えていきました。
 「ワークショップ写真学校」の授業を担当した写真家の顔ぶれをみますと、『VIVO』や新しい広告写真、「プロヴォーク」など、ここまでに取りあげてきた、60年代の写真表現の動向を担った写真家たちであることに気づかれるかと思います。個々の写真家が主役であった「ワークショップ写真学校」は、統一的な主張を掲げることはありませんでしたが、それだけにかえって、写真表現において個人が重要性を増してきたことを体現しているようでもあり、またその転換を、60年代の写真表現の動向を担った写真家自身がさらに深めたという意味で、たいへん興味深いものであるように思われます。
 「ワークショップ写真学校」は、その後の自主的な活動を生み出すきっかけにもなっていきました。東松照明教室のメンバーが中心になって設立された自主ギャラリー「PUT」(76年〜79年)、森山大道教室のメンバーが中心になって設立された自主ギャラリー「CAMP」(76年〜84年)がそれです。とりわけ「CAMP」は、『写真特急便』、『New York』などで高い評価を得ることになる北島敬三、『FLASH UP』などで注目された倉田精二、東京のスナップショットで注目された山内道雄らの活動の母胎となったという点で、記憶に残ります。
 70年代の後半は、この他にも、さまざまな自主的な活動が試みられた時代でした。ここでその多岐に渡る活動を紹介することはできませんが、80年代に活躍していくことになる写真家の多くが、発表活動の舞台として、また精神的な基盤として、70年代の自主的な活動を経験していることは、付け加えておきたいと思います。

『センチメンタルな旅』

 写真表現が、写真家という個人において捉え直されるようになった傾向を、別の側面からみてみましょう。先の引用に、「写真家という花形職業は社会的幻想としては根強く残ってはいたものの、受け口はすでに閉ざされ、個々のアイデンティティをカメラとともに考えるといった本質的な職業写真家としての道は、まったく別の形態を持たざるをえなかった」という一節があるように、70年代は写真家の在りようそのものが問われた時代でもあります。
 大学の工学部で写真映画を専攻し、電通に入社、60年代には太陽賞を受賞しながらも、70年代に入って、従来の写真表現のスタイルそのものを揺さぶるような写真を次々と発表していった荒木経惟は、写真家の在りようそのものを戯画的に自ら体現することによって、写真家や写真表現のイメージやスタイルを変更していきました。
 妻との新婚旅行の経過を撮った『センチメンタルな旅』(1971年)に添付された文章で、荒木は次のように述べています。
 「前略 もう我慢できません。私が慢性ゲリバラ中耳炎だからではありません。たまたまファッション写真が氾濫しているにすぎないのですが、こうでてくる顔、でてくる裸、でてくる私生活、でてくる風景が嘘っぱちじゃ、我慢できません。これはそこいらの嘘写真とはちがいます。この『センチメンタルな旅』は私の愛であり写真家決心なのです。自分の新婚旅行を撮影したから真実写真だぞ! といっているのではありません。写真家としての出発を愛にし、たまたま私小説からはじまったにすぎないのです。もっとも私の場合ずーっと私小説になると思います。私小説こそもっとも写真に近いと思っているからです。新婚旅行のコースをそのまま並べただけですが、ともかくページをめくってみて下さい。古くさい灰白色のトーンはオフセット印刷で出しました。よりセンチメンタルな旅になりました。成功です。あなたも気に入ってくれたはずです。私は日常の単々(ママ)とすぎさってゆく順序になにかを感じています。敬具 荒木経惟」
 この、どこまでを本気に受け取ってよいのかわからないような文章は、そもそもわざと左手で書かれたものだと言われています。加えて、表紙には、タイトルと「1000部限定」、「特価1000円」という文字が手書きで書かれ、縦位置の結婚写真がわざと横位置に収められています。この写真集に限らず、荒木の写真のイメージやスタイルには、こういった諧謔が多用されているのですが、注意しておきたいのは、こうした形で、撮影者自身を含み込む「私」なるものが、写真表現においてはじめて独特な主題として浮かび上がってきたことです。例えば、“天才アラーキー”という別名も、今と違って、この時代にはそういった諧謔の一環であったのでしょう。

写真と現代美術

 個人という観点からの捉え直しを、さらに別の側面からもみてみましょう。個人と写真表現を結びつけるものを端的に言うならば、それまでの写真表現の文脈で培われてきた文脈や制度でしょう。写真家という個人から表現の根底を捉え直すということは、そういった文脈や制度を根本的に捉え直すということでもあります。
 こうした文脈や制度を捉え直すことそのものをテーマにした写真は、先に述べた自主的な活動においてもあらわれてきますが、もっとも大胆にそれが行われたのは、現代美術という写真の外部からの、写真表現への問いかけにおいてかもしれません。と言いますのも、この時代、現代美術においても同様の問い、つまり文脈や制度の捉え直しが行われており、思いきって単純化して言うなら、美術の根本でもある、見ること、平面、時間、空間といった文脈や制度に問いかけるのに、写真というメディアはうってつけのものだったからです。後にこうした作品を集めた展覧会、『現代美術における写真』(1983)のカタログには、そのような状況が次のように記されています。
 「ここで問題とされるべきは、芸術という概念の根拠を問うこと、つまり表現以前の作家の概念それ自体を素材としてゆこうとする1960年代末から1970年代へかけてのアメリカやヨーロッパにおける新しい美術の動きに呼応するかのごとく国内に生まれた様々な動きのなかで、写真が特徴的な役割を演じたという事実である。…そこでは慣習的な美術表現といった贅肉をそぎおとした直截な方法によって、美術家たちが日常捉えられている問題が呈示されているのである」。
 写真を用いて平面という枠組みに問いかけた彦坂尚嘉、撮影対象に手を加えトリッキーな写真を作ることで、視覚の不確かさを照らし出した小本章、行為を記録するメディアとして写真を使うことからはじまり、時間や空間に独自のアプローチをしていった野村仁、ピンホールという写真の原理的な装置を使って、現実と映像の関係を顕在化していった山中信夫などの作品は、そうした問いかけの代表的なものと言えるでしょう。

 

70年代の日本現代写真

 前回も若干触れたことですが、こうした個人という観点からの写真表現の捉え直しは、パーソナルやプライヴェートというキーワードで、同時代の海外においてもひとつの潮流を形作っており、またそれと、日本の現代写真との影響関係を見いだすこともできるものでもあります。
 しかし、そういった海外の潮流と、日本の70年代の現代写真が決定的に異なっているのは、海外においては、多くの場合、美術館といった文化的な基盤の支えの上で問いかけがなされたことです。文化的な文脈や制度に問いかけながら、同時に、自主的な活動で文化的な基盤を作らなければならなかった日本の現代写真は、こうした二律背反する命題を課せられた結果、独自の自家撞着を抱え込んでいったという感もあります。しかしこの二律背反は、言いかえれば、縛られるものが少ないだけに、自在に問いを変容させていくことができた、自由さの背景でもあるでしょう。70年代の日本現代写真が、なんとも捉えがたく思われるのは、このような事情に由来するのではないでしょうか。
 ともあれ、このような独特の自家撞着、あるいは自由さは、80年代から今日にかけての写真表現の土壌になったものでもあることは確かです。70年代に比べると、比較にならないほど写真表現の文化的な基盤が整備され、成熟してきた今日の状況からは、ついつい忘れられがちなことだけに、改めて指摘しておく次第です。

(文中敬称略)