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[作家としての宿命に、誰よりも深く身をゆだね、運命そのものを作り出す技法を自らのものとし、自らが一つの運命であるような地平へと向かっていった…:鈴木清氏追悼/日本カメラ2000年5月号:244]


 死はその経験の反復不可能性において、それゆえに、あらゆる解釈を拒む点において、もっとも厳粛かつ孤立したものである。それについて何が語れるだろうか。それについて何を語れるというのだろうか。語ったところでその言葉はどこに向かうのだろう。思い出されるのは、こうしたこともまた、生前の鈴木清氏と折にふれ語り合ったことであることだ。
 しかしその語り合ったという経験もまた、二度と繰り返されることはない。死という途方もない沈黙に向かって、いかに経験を語ろうとも、その言葉が経験にとどくことはない。
 鈴木氏と共有した時間を、その時間における経験を、経験が刻んだ記憶を、ここで語るべきなのかもしれない。だが、それを語ろうとしたときに気づくのは、それが語りえないということである。語りえないわけではないのかもしれない。だが、語ってしまえば、語るということによってその経験は、否応なく溶けだしてしまうだろう。経験という名のもとに、死者を代弁する権利が誰にあるというのだろう。
 最後の写真集となった『デュラスの領土』で、鈴木氏はこう言っていた。「ところで、エクリチュール[文字表現]で、自らの生を加速度的に生成させ、絶対虚無の彼方に消えていったデュラス。彼女の裸身〈内部のスケレトス〉を背後から追うこと……つまりその行為は、自分(私)そのものを問う徴しでもあるかのように、いつのまにか、彼女の舞台〈自伝のフィールド〉でもある“酷熱”と“静寂”のインドシナを夢想し、地図〈1928刊、フランスの〉を拡げた。」
 生きることが書くことなのではなく、書くことが生きることそのものであるような次元、自らを問うことが生を生成するような次元において、鈴木氏は写真を〈書いて〉いた。エクリチュールとは何か。無数の答えが可能だろう。だがそれは、なによりもまず生の倫理である。書かれたものを、背後から追うこととは、その存在に応えることにほかならない。何によって存在に応えることができるのか。それを可能にするのは光=真理のみである。「ずっとアジアをほっつき回った光の一ページを、共鳴できる親しい人――M/Dに捧げる。」、と鈴木氏は続いて言ってた。写真集が「光の一ページ」と呼ばれていたことは、けっして隠喩ではなかったのだ。
 いささか謎めいてうつっていたかも知れない鈴木氏の言葉も、鈴木氏亡き今となってはじめて唐突に、こうして、謎めいたものが何もないことが謎であるくらいに、あきらかなものとして浮かび上がってくるのはなぜなのだろう。鈴木氏の写真集=テクストは、作者亡きあと、どこに収斂しようとしているのだろう。
 《あるテクストの統一性は、テクストの起源ではなく、テクストの宛て先にある。しかし、この宛て先は、もはや個人的なものではありえない。読者とは、歴史も、伝記も、心理ももたない人間である。彼はただ、書かれたものを構成している痕跡のすべてを、同じ一つの場に集めておく、あの誰かにすぎない。」》(ロラン・バルト)
 テクストの起源とみなされることを拒み続けた鈴木氏は、今、テクストの宛先へと、「あの誰か」へと向かっていったのだろうか。テクストの宛先へと生成することは、死という沈黙によってもたらされたのだろうか。だとしたら何という代償だろう、それが死であるということは。何という宿命だろう…
 『デュラスの領土』の前の写真集、『修羅の圏』は“finish dying”と名づけられた[自伝]であった。そこにちりばめられている、「川に沿って歩く。水の流れとともに歩みを移し、流れてゆく。なんの努力もせず、急ぐこともしない。そのあいだにも死が私たちのなかで反芻をつづけ、絶えることのない独白をつづける。――E.M.Cioran」、「すべてがそれ自体の明るさの中へころげ落ち、すべてがきらめきの中に溺れ、すべてがこの透明な死へと向かって行く。――Octavio Paz」といった引用。そしてそこに刻まれた、「タイトルのfinish dyingも断末魔すぎる、なぜ自己[物]語りか。砕けた鏡(……ここではBOOKSという紙片)の遠点には、移りゆく者として彼方の闇に潜む印影(かげ)、――『修羅』と呟いた己が裸形(らぎょう)を見出すことができただろうか。」という鈴木氏自身の言葉。
 自らの死を予期していたかのような写真集なのだろうか。そうではないだろう。宿命にそった、と言うべきだろう。とはいえ、宿命に翻弄されたわけではないだろう。“finish dying”によって作り出されたのは運命そのものであり、同時に、その運命を宿命的に生きた=書いた写真集こそが『修羅の圏』だったのだろう。だからこそ鈴木氏は『修羅の圏』を、「今回の書物(あえて写真集とは言わず)」と言ったのだろう。
 「砕けた鏡」とは、存在の呼びかけに応えることの危険、光=真理を通じて「自己[物]語」を生成することの危険、そのものなのであろう。真理の〈真〉という字が指し示すのは、まこと、ただしい、みち、といったことだけではない。それは、ふさぐ、ぶちあたる、たおれる、といったことをも指し示している。では真理とは多義的なのだろうか。そうではない。それは、厳粛と孤立が出会う場所、人が単独者として照らし出される場所にほかならない。
 鈴木氏の写真集や写真展は、じょじょにテクスト的性格を深めていっていたように見えたかもしれない。しかしそうではない。注意深く見れば、すでに処女作『流れの歌』が引用に満ちているように、鈴木氏の仕事は、はじめからテクスト的であり、エクリチュールの実践だったのだ。処女作において鮮明に自らの位置を刻み、それを一貫して展開していく、これは容易ならざる営為だ。こうした営為を天才と呼びたくなる。しかし、それだけではないだろう。鈴木氏は作家としての宿命に、誰よりも深く身をゆだね、運命そのものを作り出す技法を自らのものとし、自らが一つの運命であるような地平へと向かっていったのだろう。
 鈴木氏の作品は、処女作から現在までどれも高い評価を得てきたが、それが尖鋭なエクリチュールの実践であるがゆえに、孤立していたように思われる。孤立し、たおれること、と言うと語弊があるが、それはそんなに悪いことだろうか。そうした危険にふれることによってのみ、人は光=真理を通じて存在の呼びかけに応えることができるとするならば、そこで単独者として照らし出されることは、好運そのものではないだろうか。それにしても、「読者の誕生は、『作者』の死によってあがなわれなければならない」(ロラン・バルト)ことすら、鈴木清という作家にとっては、いささかも隠喩でなかったとは。
 思えば、こうしたこともまた、生前の鈴木清氏と折にふれ語り合ったのだった。
 何年かぶりに、ブルース・スプリングスティーンを聴いていた時に、鈴木氏の訃報を聞いた。鈴木氏とはじめて出会った展覧会会場で流れていたのが、ブルース・スプリングスティーンだった。もう鈴木氏と言葉を交わすことはできない。だが、そのことを嘆くつもりはない。いずれにせよ、こういった同じようなことを、いつも語り合っていたのだから。しかし、同じようなことを語り合う人を失うことの寂しさは、耐え難い。
 結局わたくしは、経験を語ってしまったのかもしれない。経験は溶けだしてしまっただろうか。もし溶けだしてしまったのなら、それが消え去り、途方もない沈黙において、鈴木氏の「流れ漂う写真の肉体」と出会う奇跡を願わずにいられない。